書籍記録の実験

誰が読むのか?

文章であろうと、プレゼンであろうと、対象者をしっかりとイメージできていない企画は失敗する。

解説をなぜ読むのか?

では、書評、読書感想に分類されるものは誰が読むのだろうか?
身近なところから振り返ってみよう。
あなたは、文庫本についている解説を読みますか?

最近の私は、文庫本の解説の存在意義に疑問を抱きつつある。

あなただれ?というような人が、作品の感想をダラダラ述べている解説や、もはや解説というよりも感想文なような文章。
感想文だって面白いものは面白い。私は原田宗典氏の書籍紹介「読みたくなるかもしれないが」が好きだ。
しかし、作品からの引用がやたらと多い、出来の悪い解説もある。
小学生の下手な感想文のような文章。
あれは必要なのだろうか?
あんな文章ならば、私だって、解説の実用度としては同レベルのものをかける。
文章の質は置いておこう。

もちろんすべての解説が悪いわけではない。
例えば、ちょっと古い小説について、時代背景や、著者の人となりを説明してくれているものや、翻訳者が他の文学作品と比べて何が違うのか?などを語っているものは、作品の理解を深め、より楽しませてくれる。

つまり、解説を読む理由は、自分の知識の補完のためや、他者の整理された感想をもとに考えを深めるためだ。

という理由で、私は、なるべく引用の少ない感想を書いてきた。
しかし、現在、感想がそんなに読まれているわけではない。

ならば、自分用に振り切ってもいいのでは?

書評ブログをなぜ読むのか?

考えてみると、解説を読む理由と書評ブログを読む理由は違う。
私の場合、解説は読んだ本への理解の深化のために読んでいる。
書評ブログは、面白い本の探索のために読んでいる。

書評ブログの上手な人は本当にすごい。
ネタをばらさずに、いかに素晴らしい本かを伝える技術。
それこそ、文庫本の下手糞な解説者など比べるべくもない。

私が急に、素晴らしい文章を書けることはないだろう。
文章は鍛錬が必要だ。
しかし、書評ブログを読む理由は意識する必要はある。

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今後の書籍記録の書きかた

自分用に振り切った書き方をしよう。
それを楽しんでくれる人がいたらラッキー。
楽しんでくれる人がいなくても、自分のためにはなる。

しかし、それでは、私が書評ブログを読む理由は満たされない。
つまり、対象者を読後の自分として、感想を書きつけると、読前の私はネタをばらされるリスクにさらされて不安になる。
誰が目を通すか分からない。人の楽しみを奪いたくはない。そこにも気を使って書籍を記録したい。

では、未読の自分と既読の自分を対象にしよう。

これならば、過去の私が満足する記事になる。

未読の私向けの文章では、私が知っている程度のネタばらしは許容として、既読の私向けの文章では、ネタバレ全開の感想や、未来の自分へのメモを書こう。

解説などという高尚なものを書く必要はないのだ。
あくまで、書籍記録だ。

対象読者は過去と未来の自分。

こう振り切って書いてみる。

未読の方は、過去の自分あての部分のみをご覧くださいませ。

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