書籍『野火』

新潮文庫の100冊 2018年版を読む ( 16冊目 )。
GWに読み進めた。

未読の自分にすすめる?

あらすじ

舞台はフィリピン戦線。
ほぼ敗退している日本軍とアメリカ軍がぶつかった場所だ。

主人公は結核のため、除隊させられた田村という兵士。
追い詰められている日本軍には戦えない兵士を置いておく余裕はない。
野戦病院も食料に乏しく患者を増やしたくない。
戦地では、田村を含む負傷兵は行き場を失っている。

結核のために、隊から自由になった田村は単独行動を開始し、同じ負傷兵の行動を目にしつつ、フィリピン人や、アメリカ軍に怯えながら活動する。

すすめる?

本書は、死を意識した負傷兵の行動記録だ。
激しい戦闘が描かれる本ではない。いわゆる銃弾が飛び交う戦争映画的なものではない。

常に死を意識せねばならない負傷兵の精神や、負傷兵が見た世界についての描写が多い。
死を意識したものの哲学についての本だ。

日本の夏はなぜ死が近く感じるのだろう?
終戦記念、原爆、お盆。
うだるよな暑さでぼんやりした頭で、終戦記念日のニュースを見ているときのような。そんな気分になる本だ。

楽しい本とは感じないだろうけれど、読んで損した気にはならない本でした。
ぜひ、読んでおいてください。
ただし、体力があり、翌日に仕事を控えていない、気分の穏やかな時に読みましょう。
「翌日から仕事だ~」とか、「連休終わりだ~」というときに読むと、陰鬱さに拍車がかかります。

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既読の自分と語らう

生きている実感はどこから湧くのか?という点と、プロセスを排除した食事が気になったので、その点について語りたい。

生きている実感としての景色

熱帯の緑を感じる描写が繰り返されました。
最初は、「しつこいな。」くらいにしか感じていなかったのですが、途中で考えが変わりました。

というのは、景色の描写が、田村の考える、生きている実感と結びついたからです。
田村は生きている実感を繰り返しにより発生するものだと考えていました。
「この道は何度も通る」というのと、「この道を通るのもこれで最後だ」というのでは見え方が違う。繰り返されない最後には意味が異なる。ということです。
死の迫った田村にとって、すべての景色が最後の一回です。

しかし、違う風景であっても同じように、女性の体で例えた表現が多い。
つまり、同じような景色の繰り返し、ないし、同じ景色の繰り返しとして語られています。
つまり、田村の生へのしがみつき。生への執着を表しているのではないでしょうか?

一方で、景色を例えるのに使っている女性の表現。
田村は、フィリピン人の女性を殺したことから、殺した女性の目への恐れを感じています。
田村にとって、女性は、死を感じさせる不穏な物、となっているのではないでしょうか?

プロセスを排除した食事 猿の肉

田村は最後の方で、「猿の肉」を口にしました。
自分でとらえた猿ではなく、同じく負傷兵の仲間に狩ってもらったものです。

しかし田村はこの島で、猿を見たことはない。
そんなやすやすと猿が手に入るはずがない。
内心では、猿ではなく、日本兵だと気が付いていたに違いありません。

それでも食べる。

死を遠くに追いやっていると、こんな行動ができてしまう。
パックになっている牛肉は食べられても、加工される前の牛肉には不気味さを感じる。
これを考えると、田村が人肉を口にしたのは、確かに口にしそうだと思ってしまうのです。
だからこそ、気持ち悪さを感じたのでしょう。

気になった点

途中、田村が同じ日本兵に狩られそうになった時の話です。
田村は「菩薩のような目」という表現を使いました。
そして、その菩薩は人を殺し食べる存在でした。

田村はマリアなど、キリスト教的な表現も使いました。
こちらは善良なるものを描写しています。

この辺り、罪悪の仏教と善良のキリスト教という対比か何かがありそうだと感じたのですが、読み切れません。

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